無料ダウンロード峠(中) (新潮文庫) pdf
峠(中) (新潮文庫)
06/04/2020 04:03:31, 本, 司馬 遼太郎
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によって 司馬 遼太郎
3.9 5つ星のうち24 人の読者
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内容紹介 映画化決定!2020年公開予定「峠・最後のサムライ」 出演:役所広司、松たか子、仲代達矢 監督・脚本:小泉堯史 幕府にも官軍にも与せず小藩の中正独立を守ろうとした男の信念! 旅から帰った河井継之助は、長岡藩に戻って重職に就き、洋式の新しい銃器を購入して富国強兵に努めるなど藩政改革に乗り出す。ちょうどそのとき、京から大政奉還の報せが届いた。家康の幕将だった牧野家の節を守るため上方に参りたいという藩主の意向を汲んだ河井は、そのお供をし、多数の藩士を従えて京へ向う。風雲急を告げるなか、一藩士だった彼は家老に抜擢されることになった。 本文より ともあれ、この慶応元年七月、継之助は外様吟味になった。 地方官である。地方といっても代々の藩領ではなく、あらたに藩領になった土地の裁判役というところであろう。 継之助を抜擢したのは、ちかごろお国帰りしている藩主牧野忠恭(ただゆき)であった。 家老たちが、 「さて、かの者はどうも過激で」 といって賛成しかねていたが、忠恭は、 「人間は温和だけが美徳というわけではあるまい」 といって押しきった。藩の人事を殿様みずからの声がかりでやるというのはまずめずらしい。 「あの男が、必要なのだ」(「信濃川」) 司馬遼太郎(1923-1996) 大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を一新する話題作を続々と発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞を受賞したのを始め、数々の賞を受賞。1993(平成5)年には文化勲章を受章。“司馬史観”とよばれる自在で明晰な歴史の見方が絶大な信頼をあつめるなか、1971年開始の『街道をゆく』などの連載半ばにして急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。
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(上巻より)慶應元年(1865)7月、継之助は長岡藩の地方官である外様吟味に就く。世上は長州征伐で沸き返っている頃である。すると3ヶ月で郡奉行、11月には町奉行も兼務し、藩行政を瞬く間に掌握し、賭博、蓄妾を禁制とし、自らが大いに好む遊郭までを禁制とする政策を次々と実施した。此の時長岡に、有名な「可愛い(河井)可愛いと今朝までおもいいまは愛想も継之助」の謡が流行ったという。また参勤交代の停止から機能を必要としなくなった江戸の藩屋敷と藩主所蔵の什器を処分し、外国商人に引き取らせた。此の徹底的な経済政策は功を奏し、藩庫は大いに潤い、藩軍の洋式化は急速に進捗する。それも継之助自身が横浜で見定めてきた、薩長藩にも劣らぬ、最新鋭の銃砲を大量に買い入れており、その中には、欧米列強さえも装備していない米国製の最新鋭機関銃「ガトリングガン」も含まれて、それらをプロシア人武器商人エドワルド・スネルの汽船を用いて、直接新潟港まで輸送させて藩領へ運び込んでいる。継之助の藩政は俄かに動力を増し、国許の有能な官僚、花輪馨之進、村松忠治衛門、三間市之進らが彼を支えた。当時の各藩の装備というものは、薩摩藩、長州藩、土佐藩の一部、肥前鍋島藩、それに幕府歩兵が一流の装備を持つ程度で、他の多くは刀槍甲冑に火縄銃、もしくは時代遅れのゲベール銃というのが殆どであった。ところが越後の小藩長岡藩にあっては、継之助によって世界水準の火器装備を持つに到っている。新式元込銃は先込めのゲベール銃を1発撃つ間に、10発の射撃が可能であり、弾丸が球形ではなく尖型であるために射程が長大で命中精度が高い。此れは7万4千石の長岡藩が、俄かに74万石の大藩の兵力に成長したに等しい。更に1分間に360発の射撃が出来るガトリングガンは、360人の藩兵に匹敵し、長岡藩の軍事力は、短期間に10倍から15倍に飛躍していた。 そして慶應3年(1867)10月14日、大政奉還。前年、隠居して雪堂と号した忠恭の後を24歳で継いだ、12代藩主忠訓(ただのり)を擁して、家老に列せられた継之助は藩兵を率いて情報収集の為に上洛した。12月9日大坂到着。宮中では小御所会議を経て、王政復古の大号令が発布された。継之助は参内して建白書を提出したが、別段の沙汰も無い儘、大坂へ戻る。長岡藩は鳥羽伏見の戦は大坂玉津橋の警備で終え、1月7日夕刻、大坂から奈良、笠置、伊賀、松坂を抜け、東海道から江戸へ戻っている。 此の巻の白眉は、継之助と福澤諭吉を対話させる場面であろう。共に幕末を代表する慧眼の士であり、武士の身分ながら(福澤は豊前中津藩士)、武士身分の消滅を予見し、実行不可能な攘夷などを頭から否定し、西洋文明を積極的に取り入れて、開国貿易による富国強兵を目指す点で一致していた。福澤は二度の欧米諸国遊歴の経験から、四民平等と教育の普及、立憲君主制による近代国家を模索するなど、此の時代最も先進的な人物であった。自らが武士である事に一切執着せず、封建的な身分撤廃を考える福澤とは対照的に、継之助は長岡藩家老として、主君牧野家への忠義を第一とし、その藩'を封じた大恩ある徳川家に報いる事こそ、三河以来の譜代大名である自藩の採る道であるとする。両者の相容れない絶対的な考え方の相違であろう。 継之助ほどの聡明な人物が、遂には自らの身分と立場と、「忠義」という武士の道を捨てる事無く終わった。それは口では攘夷を唱えながら、いち早く洋式化した武力をもって旧勢力を討滅し、明治維新後は掌を返す様に開国し、版籍奉還と武士身分の消滅、廃刀令という政策に転じた薩長とは余りに対照的である。此の継之助と福澤の対話の中では、新生日本の黎明に相応しい議論が交わされている。徳川家の大政奉還以後は、大名合議の「大名同盟(アリストクラシー)」ではなく、天皇を戴く「立君制度(モナルキー)」を是とし、四民を廃して国民総商人として「自由(リバティ)」と「権理(ライト。理の字はママ)」の概念を普及させ、欧州で成熟した文明を日本に移植して、近代国家の道を目指そうとする福澤の構想。「ひとを貴賤の身分で区別する国家社会は繁栄しない」という視線に立って完全開国主義を採り、民衆の経済力と教育水準を上げる事で、国家そのものが繁栄するという政治思想を共有しながら、継之助は、遂に福澤と同じ結論までには到達し得なかった。徳川家と藩の崩壊などどうでも良い、という結論にである。此の二人の宴の場に、「幕末」と「明治」の明確な区切りが存在しているかの如くである。恰も、有余る先進的な才幹を持ちつつも時代に殉じた継之助の、惜しみて余りある感情を、著者が筆に乗せ、明治後の時勢をも見通していた継之助の才気を代弁したかの様な場面である。 暫く江戸呉服橋の藩邸に滞在し、藩軍の洋式調練などを行っていた継之助の許に、会津藩・桑名藩を中心として、後の奥羽北越列藩同盟の基礎となる会合が誘われたが、長岡藩は主導的役割を回避した。あくまでも武装中立主義を立て通す意思である。此の頃京都から征討軍が進発し、江戸は各藩の武士が領地へ戻った為に急速に寂れ、彰義隊を始めとする幕府側の兵士が横行し、治安が悪化していた。継之助は藩邸を整理し、横浜で最新式の武器の買い付けと輸送を手配した後、藩士を一人残らず越後へ帰す準備を整えた(下巻に続く)。
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